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鹿島神宮と香取神宮|武甕槌・経津主が国譲りを成した東国二社をやさしく解説

ivory washi 背景に painterly な利根川を挟んで対峙する鹿島神宮(左岸)と香取神宮(右岸)の杜と鳥居のシルエット、空に朝の光、タイトル「鹿島と香取の神宮」を上部左寄りに配したアイキャッチ画像

茨城県鹿嶋市の鹿島神宮(かしまじんぐう)と、千葉県香取市の香取神宮(かとりじんぐう)は、名前も響きもよく似た東国の古いお社です。では、この二社はいったい何が違うのでしょうか。鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(タケミカヅチ)、香取神宮の御祭神は経津主大神(フツヌシ)で、どちらも国譲り神話に関わる剣の神として語られてきました。両社は利根川下流域を挟んで相対するように鎮まる、東国を代表する武神信仰の古社です。ただし『日本書紀』では経津主神と武甕槌神が、『古事記』では建御雷神と天鳥船神が派遣されるなど、記紀によって伝承に異同があります。両社はいずれも古くから朝廷の崇敬を厚く受けてきました。

この記事では、鹿島神宮と香取神宮それぞれの御祭神、国譲り神話における二神の働き、利根川を挟む地理と二社一対の関係、要石と地震伝承、奈良の春日大社との連動、そして東国三社めぐりの基本まで、御祭神・神話・要石・建築・参拝という手がかりから二社を並べて、鹿島神宮公式・香取神宮公式・茨城県公式観光・千葉県公式観光「ちば観光ナビ」などをもとに整理します。

この記事でわかること
  • 鹿島神宮(武甕槌大神)と香取神宮(経津主大神)の御祭神と由緒
  • 国譲り神話で活躍した二神の働き(記紀の異同を含む)
  • 利根川を挟む二社一対の地理的・宗教的関係
  • 要石と地震を鎮める伝承(凹形・凸形の対比)
  • 春日大社との連動と東国三社めぐり(息栖神社を含む)
項目鹿島神宮香取神宮
鎮座地茨城県鹿嶋市千葉県香取市
御祭神武甕槌大神(タケミカヅチ)経津主大神(フツヌシ)
一宮常陸国一宮下総国一宮
要石の形凹形(大鯰の頭を押さえる)凸形(大鯰の尾を押さえる)
本社の本社全国およそ600社の鹿島神社全国およそ400社の香取神社
ivory washi 背景に painterly な古代の香取海と利根川下流域の広い水域、周囲に鹿島・香取・息栖の三社の小さなシルエットが点在する俯瞰構図、東国三社の地理を象徴
目次

鹿島神宮と香取神宮(両社の位置づけ)

鹿島神宮と香取神宮の関係を知るうえで、まず両社の地理的な配置と、古代における特別な格式を押さえておきましょう。

利根川を挟んで相対する東国の二社

鹿島神宮は茨城県鹿嶋市に、香取神宮は千葉県香取市に鎮まり、利根川の下流域を挟んで相対するように位置しています。古代、現在の利根川下流域・霞ヶ浦・北浦周辺には、「香取海(かとりのうみ)」または「香取内海」と呼ばれる広大な水域が広がっていました。両社は香取海に面した水運の要所に鎮座し、古くから東国遠征の祭祀や水運の拠点として重要な役割を担ってきたと伝えられます。

古代に「神宮」と称された三社

平安時代の延長5年(927年)に成立した『延喜式』神名帳において、社名に「神宮」と記されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社のみであったと伝えられます。「神宮」は古くから特別な由緒や崇敬を示す社号の一つで、鹿島と香取が伊勢と並んで「神宮」と呼ばれてきたことは、両社の格式の高さをうかがわせるものです。

常陸国・下総国それぞれの一宮

律令体制下では、鹿島神宮は常陸国の一宮、香取神宮は下総国の一宮として位置づけられてきました。一の宮一覧でも触れているとおり、一宮はその国でもっとも格式の高い神社として古くから尊ばれた社で、鹿島・香取はそれぞれの国を代表する古社として続いてきました。また、両社は全国に多数ある鹿島神社・香取神社の本社として広く崇敬されており、鹿島神宮はおよそ600社、香取神宮はおよそ400社の本社にあたると一般に紹介されています。

ivory washi 背景に painterly な布で包まれた直刀の象徴と、傍に painterly なニホンジカ1頭、背景に鹿島神宮の杜と楼門のシルエット、武甕槌大神の韴霊剣と神鹿伝承を象徴する構図

鹿島神宮の御祭神 武甕槌大神

まず二社の御祭神を、それぞれ見ていきましょう。鹿島神宮の御祭神 武甕槌大神(タケミカヅチ)は、神話のなかで剣神・武神として描かれ、神名や神話の文脈から雷神的な性格も読み取られてきた強い神格です。鹿島神宮の御由緒に沿って、その性格と信仰の広がりを見ていきます。

剣神・武神としての性格

武甕槌大神は『古事記』『日本書紀』のなかで、剣と武の象徴的な力をもつ神として描かれます。『古事記』の神産み神話では、伊邪那岐命(イザナギ)が火の神(カグツチ)を斬ったときに、剣についた血から生まれた神々のなかに武甕槌神(建御雷神)が含まれると伝えられ、剣そのものから生じた神格として位置づけられています。「武甕槌」の名は、武勇と霊威を象徴する古語に由来するとされ、剣神・武神として知られ、神名や神話から雷神的な性格も指摘されてきました。

神武東征と韴霊剣の伝承

鹿島神宮の御由緒では、神武天皇の東征の途中、熊野の地で皇軍が荒ぶる神の毒気にあい意識を失った際、武甕槌大神の韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)が高倉下(タカクラジ)の夢に現れて天皇のもとに届けられ、その神威によって皇軍は窮地を脱したと伝えられます。鹿島神宮の御創建は、この神恩に感謝して武甕槌大神を鹿島の地に祀ったことに始まると伝えられ、初代神武天皇の御代にまでさかのぼる古社として位置づけられています。

春日大社との連動と全国の鹿島神社

奈良の春日大社の社伝では、平城京遷都の頃に藤原氏の祖が藤原氏の守護神である鹿島の武甕槌大神を御蓋山に迎えたという伝承が伝わり、武甕槌大神が白鹿に乗って奈良へお越しになったと語り継がれてきました。春日大社公式では、神護景雲2年(768年)に四柱の御本殿が造営され、御本社として整備されたと説明されています。この白鹿の伝承から、奈良の鹿が春日の神使として大切にされてきました。鹿島神宮の境内にも鹿園があり、神鹿は古くから武甕槌大神の使いとして大切にされています。

ivory washi 背景に painterly な祭壇の上に布で包まれた直刀1本と榊の小枝、背景に香取神宮の黒漆塗本殿と朱塗り楼門のシルエットが遠景に浮かぶ構図、経津主大神の剣神性を象徴

香取神宮の御祭神 経津主大神

香取神宮の御祭神 経津主大神(フツヌシ)は、武甕槌大神と並ぶ剣神・武神として描かれる神格です。経津主大神の性格と、香取の祭祀の歴史を見ていきましょう。

剣神としての性格と「フツ」の意味

経津主大神の「経津(フツ)」は、古代の剣の発する音や剣の霊威を表すとされ、剣神としての性格を象徴する名前と理解されてきました。香取神宮公式によれば、経津主大神は別名を伊波比主命(イハヒヌシ)ともいい、『日本書紀』の伝承では武甕槌大神とともに葦原中国の平定に活躍した剣神として、国家鎮護・武徳の神として広く信仰を集めてきました。

香取神宮の創建と古代の祭祀

香取神宮の社伝では、初代神武天皇18年に経津主大神を香取の地に祀ったのが創建と伝えられています。古代の祭祀氏族としては、経津主大神の神裔を称する香取氏が知られ、経津主神の本質や物部氏との関わりについては、現在も諸説が議論されています。剣神・国家鎮護の神として東国に祀られたという点は、両社の御由緒に共通する伝承です。

春日大社の第二殿と全国の香取神社

奈良の春日大社では、第一殿の武甕槌命に対して、第二殿に経津主命が祀られています。藤原氏の信仰の広がりとともに、武甕槌・経津主の二神は奈良の春日へお迎えされ、全国の春日社・香取社へとその信仰が広がっていきました。

ivory washi 背景に painterly な砂浜と2本の十握剣が逆さに突き立てられた象徴構図、背景に出雲の山並みの遠景、稲佐の浜での国譲り交渉の場を象徴

国譲り神話と二神の働き

ここまで見た武甕槌大神と経津主大神が、ともに主役として登場するのが国譲り神話です。二神がどのような働きをしたのかを、記紀の伝承に沿って見ていきましょう。

葦原中国の平定と二神の派遣(記紀の異同)

天照大神を中心とする高天原(たかまのはら)の神々が、地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるべく、何度かの使者を遣わしましたが、いずれもうまく行きませんでした。そこで天照大神は八百万神(やおよろずのかみ)に相談し、最終的に剣の神々を派遣することになります。

『日本書紀』本文では、経津主神と武甕槌神が葦原中国平定のために派遣されたと伝えられます。一方、『古事記』では建御雷神(武甕槌神)と天鳥船神(アメノトリフネ)が派遣されたと記されており、登場する神や展開に異同があります。鹿島神宮・香取神宮の御由緒では、武甕槌大神と経津主大神がともに葦原中国平定に関わった神として語られています。

項目『日本書紀』本文『古事記』
派遣された神(1柱目)経津主神建御雷神(武甕槌神)
派遣された神(2柱目)武甕槌神天鳥船神
建御名方神の登場登場せず事代主神に続いて力比べを行う

稲佐の浜での国譲り交渉

『日本書紀』系の伝承では、剣の神々は出雲国の稲佐の小浜(いなさのおはま)に降り立ち、十握剣(とつかのつるぎ)を逆さに突き立て、その切先の上に座して、大国主神(オオクニヌシ)に国譲りを迫ったと伝えられます。大国主神は、子の事代主神(コトシロヌシ)に意見を仰いだのち、葦原中国を天照大神の御子に譲ることを承諾し、自らは出雲の地に祀られることを願ったとされます。『古事記』では、事代主神に続いて建御名方神(タケミナカタ)との力比べが語られ、建御名方神が信濃の諏訪へ移った後に国譲りが成ったと描かれています。スサノオとヤマタノオロチの神話から続く出雲神話の系譜のなかで、国譲りは葦原中国の主権が高天原に移る大きな転換点として描かれています。

東国経営と二神の鎮座

国譲りの神話を経て、武甕槌大神は鹿島の地に、経津主大神は香取の地に鎮まったと両社の御由緒は伝えています。古代、東国は蝦夷(えみし)との接触圏でもあり、朝廷にとって東方の経営は重要な政治的課題でした。両神を香取海を挟む水運の要所に祀る両社は、東方の重要な祭祀の場として、奈良時代以降の東国遠征においても朝廷から厚く崇敬され続けました。

ivory washi 背景に painterly な利根川を中央に挟み、左岸に鹿島神宮、右岸に香取神宮の楼門と杜のシルエットが対称的に配された俯瞰構図、二社一対の関係を象徴

二社一対と利根川を挟む武神の社

鹿島神宮と香取神宮は、それぞれ独立した神社でありながら、古来から「二社一対」の関係として語られてきました。地理的配置や祭祀の連動を見ると、二社が一体的な信仰圏を形成してきたことが見えてきます。

利根川を挟む地理と古代の香取海

古代、現在の利根川下流域・霞ヶ浦・北浦の一帯は「香取海」と呼ばれる広大な内海でした。鹿島神宮はこの内海の北岸、香取神宮は南岸に位置し、水運によって結ばれていました。両社は香取海の対岸同士に鎮まる対の社として、東国の水運と祭祀の両面で深い関わりをもってきたと伝えられます。

本殿と楼門の建築様式

鹿島神宮の本殿は、元和5年(1619年)に江戸幕府2代将軍 徳川秀忠によって造営されたもので、三間社流造の檜皮葺、彩色は控えめで落ち着いた意匠が特色です。楼門は寛永11年(1634年)に水戸初代藩主の徳川頼房によって奉納されたとされ、日本三大楼門のひとつに数えられるとされる重厚な構えです。本殿・楼門ともに国の重要文化財に指定されています。

香取神宮の現在の本殿と楼門は、いずれも元禄13年(1700年)に江戸幕府5代将軍 徳川綱吉によって造営されました。本殿は三間社流造の檜皮葺で、黒漆塗を基調とした荘厳な意匠が特色です。楼門も同年の造営で、朱塗りの華やかな構えが境内の入口を飾ります。神社建築の見方で触れている流造の代表例として、両社の本殿は対比的に見ることができる貴重な建築です。本殿・楼門ともに国の重要文化財に指定されています。

項目鹿島神宮香取神宮
本殿造営年元和5年(1619年)・徳川秀忠元禄13年(1700年)・徳川綱吉
本殿様式三間社流造・檜皮葺・控えめな意匠三間社流造・檜皮葺・黒漆塗を基調
楼門造営年寛永11年(1634年)・徳川頼房元禄13年(1700年)・徳川綱吉
楼門の特徴日本三大楼門のひとつ朱塗りの華やかな構え

奥宮と境内の見どころ

鹿島神宮の境内には、武甕槌大神の荒魂(あらみたま)を祀る奥宮があり、慶長10年(1605年)に徳川家康が関ヶ原の戦勝御礼として奉納した社殿が、現在の奥宮として伝えられています。香取神宮の境内では、旧参道の中程に経津主大神の荒魂を祀る奥宮が鎮まり、いずれも本宮とあわせて参拝するのが古くからの作法とされてきました。

ivory washi 背景に painterly な凹形(鹿島)と凸形(香取)の要石を左右に対比配置、地中に painterly な大鯰のシルエット、それぞれに鹿島・香取のラベル、要石の対の伝承と地震鎮めを象徴する構図

要石と地震伝承

鹿島神宮と香取神宮の境内にはそれぞれ「要石(かなめいし)」と呼ばれる霊石があり、古くから地震を鎮める神石として語り継がれてきました。二つの要石は対をなす伝承で結ばれており、両社の関係を象徴する存在でもあります。

大鯰を押さえる要石

鹿島神宮・香取神宮の御由緒では、地中深くにいる大鯰(おおなまず)が暴れることで地震が起きるとされ、要石はその頭と尾を押さえて地震を鎮める神石であると伝えられてきました。

神社要石の形押さえる場所
鹿島神宮凹形(中央がくぼんだ形)大鯰の頭
香取神宮凸形(中央が盛り上がった形)大鯰の尾

地中に深く埋まる要石の根は計り知れず、地表から見える部分はその一端に過ぎないとも言い伝えられてきました。

水戸光圀の掘削逸話

香取神宮公式の伝承では、貞享元年(1684年)、水戸藩主 徳川光圀(みつくに、水戸黄門)が香取神宮を参拝した折、要石の正体を確かめるためにその周囲を掘らせたものの、何日掘っても根元には到達できず、ついには掘削を断念したと伝えられています。要石の深さは計り知れないものとして、今日まで語り継がれてきました。

地震と「鯰絵」の文化

安政2年(1855年)の安政江戸地震後、地震を鎮める鹿島大神と暴れる大鯰を描いた「鯰絵(なまずえ)」と呼ばれる版画が市中で流行しました。要石信仰は神社の祭祀から離れて庶民の地震観念とも結びつき、江戸時代日本の地震文化の一端を形作りました。現代でも、両社の要石は地震鎮めの神石として、参拝者の祈りを集める存在となっています。

ivory washi 背景に painterly な aged washi 地図風背景、3つの小さな鳥居のシルエットを painterly な参拝路の線で結び、中央に利根川、それぞれに鹿島・香取・息栖のラベル、東国三社めぐりを象徴する構図

東国三社めぐりと参拝の流れ

鹿島神宮と香取神宮は、茨城県神栖市の息栖神社(いきすじんじゃ)とあわせて「東国三社」と呼ばれ、古くから三社を一度に巡る参拝が広く行われてきました。三社めぐりの背景と、参拝の基本を整理します。

東国三社の構成と「下三宮参り」

東国三社は、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)・香取神宮(千葉県香取市)・息栖神社(茨城県神栖市)の三社で構成されます。江戸時代には、伊勢神宮を参拝した人々が帰路に東国三社をめぐる「下三宮参り(しもさんぐうまいり)」が広く行われ、関東屈指の信仰圏として庶民に親しまれてきました。利根川水運の発達とともに三社を結ぶ参拝路が整い、国譲り・葦原中国平定に関わる神々を祀る三社として、東国の代表的な参拝コースとして根付いた歴史があります。

息栖神社の役割

息栖神社(いきすじんじゃ)の主神は久那斗神(クナドノカミ)で、相殿神として天乃鳥船神(アメノトリフネ)などが祀られています。天乃鳥船神は『古事記』で武甕槌大神とともに葦原中国に派遣された神として描かれ、息栖神社は鹿島・香取と神話的な縁で結ばれています。境内の一の鳥居前の池には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる古井戸があり、日本三所の霊水の一つと伝えられる神聖な水源として知られてきました。

参拝の流れと作法

参拝の基本は一般的な神社参拝と同じで、手水舎の作法二礼二拍手一礼を意識すれば十分です。鹿島神宮では、次のような順路で本宮と奥宮を巡るのが一般的です。

順路
大鳥居・楼門をくぐる

大鳥居と楼門をくぐって、境内へ進みます。

順路
本宮で参拝する

本宮で参拝します。

順路
奥宮・要石・御手洗池を巡る

本宮のあと、奥宮・要石・御手洗池(みたらしいけ)を巡ります。

香取神宮では、表参道・総門・楼門を経て本宮で参拝し、奥宮・要石を巡る流れが定着しています。授与所の受付時間や御朱印の頒布時間は変更されることもあるため、参拝前に両社公式の案内を確認するのがおすすめです。

三社それぞれの境内で巡る場所を、順路の一例として表にまとめました。

神社鎮座地境内で巡る場所の例
鹿島神宮茨城県鹿嶋市大鳥居・楼門をくぐり、古くからの習わしでは高房社に参ってから本宮へ。その後に奥宮・要石(凹形)・御手洗池
息栖神社茨城県神栖市一の鳥居前の忍潮井(日本三所の霊水と伝わる古井戸)、本殿
香取神宮千葉県香取市表参道・総門・楼門から本宮へ、その後に奥宮・要石(凸形)

鹿島・香取・息栖の三社をすべて一日で巡る場合、レンタカーや観光タクシーを利用するのが便利です。最寄り駅から徒歩のみで巡るのは時間的に厳しいため、移動手段は事前に計画を立てておくと安心です

よくある質問

鹿島神宮と香取神宮の違いは何ですか?

鹿島神宮は茨城県鹿嶋市に鎮座し、御祭神は武甕槌大神(タケミカヅチ)で、剣神・武神として知られる神様です。香取神宮は千葉県香取市に鎮座し、御祭神は経津主大神(フツヌシ)で、こちらも剣神・武神として古くから信仰を集めてきました。両社は利根川下流域を挟んで相対するように位置し、いずれも『古事記』『日本書紀』の国譲り神話で活躍した剣の神々を祀る古社です。『日本書紀』本文では経津主神と武甕槌神が、『古事記』では建御雷神と天鳥船神が派遣されるなど、記紀によって伝承の系統に異同があります。平安時代の『延喜式』神名帳において「神宮」と記されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけだったと伝えられます。

御祭神はどなたですか?

鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神です。神代の昔、天照大御神の命を受けて、香取神宮の御祭神である経津主大神とともに出雲国に天降り、大国主神と国譲りの交渉を成就させたと伝えられます。香取神宮の御祭神は経津主大神で、こちらも国譲り神話で武甕槌大神とともに葦原中国の平定に尽くした剣神として描かれます。両社の御祭神は、藤原氏の氏神として奈良の春日大社にもお迎えされ、春日大社の第一殿・第二殿に祀られています。

創建はいつですか?

両社の御由緒では、いずれも初代神武天皇の御代に創建されたと伝えられます。鹿島神宮の御由緒では、神武天皇が東征の際に武甕槌大神の韴霊剣の神威によって救われ、その神恩に感謝して大神を鹿島の地に勅祭したのが始まりとされます。香取神宮の御由緒では、神武天皇18年に経津主大神を香取の地に祀ったのが創建と伝えられます。いずれも『常陸国風土記』『古語拾遺』など古代の文献に記載があり、東国を代表する古社として古くから朝廷の崇敬を集めてきました。

国譲りで派遣された神が、本やサイトによって違うのはなぜですか?

『日本書紀』本文では経津主神と武甕槌神の二柱が、『古事記』では建御雷神(武甕槌神)と天鳥船神が葦原中国へ遣わされたと記されており、記紀の間で伝承に異同があるためです。どちらかが誤りというものではなく、古代の伝承が複数の系統で伝えられてきた結果と説明されることがあります。鹿島神宮・香取神宮の御由緒では、武甕槌大神と経津主大神がともに葦原中国の平定に関わった神として語られており、本記事もこの御由緒に沿って整理しています。

東国三社とは何ですか?

東国三社とは、関東東部に鎮座する鹿島神宮・香取神宮・息栖神社(茨城県神栖市)の三社を指す総称です。江戸時代には伊勢神宮参拝のあとに東国三社をめぐる「下三宮参り」が広く行われ、利根川水運の発達とともに庶民の信仰として広まりました。鹿島・香取の二神に加え、息栖神社には『古事記』で建御雷神とともに派遣された天乃鳥船神も相殿神として祀られており、三社は葦原中国平定の神話ともゆるやかにつながる東国の代表的な信仰圏として親しまれてきました。

要石とは何ですか?

要石は、鹿島神宮と香取神宮の境内にそれぞれある古くから尊ばれてきた霊石で、地中深くに埋まる大鯰の頭と尾を押さえて地震を鎮めていると伝えられます。鹿島神宮の要石は凹形で大鯰の頭を、香取神宮の要石は凸形で大鯰の尾を押さえているとされています。香取神宮公式の伝承では、貞享元年(1684年)に水戸光圀が香取神宮を参拝した折に要石を掘らせたものの、根元まで掘り出すことはできなかったという逸話が伝わっています。

本殿や楼門の特徴は?

香取神宮の現在の本殿と楼門は、いずれも元禄13年(1700年)に江戸幕府5代将軍 徳川綱吉によって造営されたもので、本殿は黒漆塗を基調とした荘厳な三間社流造、楼門は朱塗りの華やかな構えで、いずれも国の重要文化財に指定されています。鹿島神宮の本殿は元和5年(1619年)に徳川秀忠が、楼門は寛永11年(1634年)に水戸初代藩主 徳川頼房が造営したと伝えられ、いずれも国の重要文化財に指定されています。

アクセスは?

鹿島神宮へは、JR鹿島線「鹿島神宮駅」から徒歩約10分、または東京駅八重洲南口から高速バス「かしま号」で約2時間「鹿島神宮」下車徒歩約10分です。香取神宮へは、JR成田線「佐原駅」からタクシーで約10分、または同駅から路線バスで「香取神宮」下車徒歩約5分です。東国三社めぐりをされる場合は、レンタカーや観光タクシーを利用すると一日で三社を回れます。最新の運行情報は、両社公式や茨城県公式観光・千葉県公式観光「ちば観光ナビ」で確認できます。

まとめ|二社の違いと共通点を振り返る

鹿島神宮と香取神宮を、御祭神から参拝まで、いくつかの手がかりで並べて見てきました。二社の違いと共通点を、あらためて整理します。

  • 御祭神は、鹿島神宮が武甕槌大神、香取神宮が経津主大神で、どちらも剣神・武神として信仰されてきました
  • 平安時代の『延喜式』神名帳で「神宮」と記されたのは、伊勢・鹿島・香取の三社だけと伝えられます
  • 国譲り神話では、『日本書紀』が経津主神と武甕槌神を、『古事記』が建御雷神と天鳥船神を伝え、記紀で異同があります
  • 要石は、鹿島神宮が凹形で大鯰の頭を、香取神宮が凸形で尾を押さえるとされ、対をなす伝承で結ばれています
  • 鹿島・香取に息栖神社を加えた三社は「東国三社」と呼ばれ、古くからめぐり参拝が親しまれてきました

奈良の春日大社では、鹿島の武甕槌命と香取の経津主命が第一殿・第二殿の御祭神として祀られており、藤原氏の氏神として両社の信仰が全国へ広がっていきました。スサノオとヤマタノオロチの神話から続く出雲神話の系譜のなかで、国譲りに関わる二神を祀る鹿島と香取の杜を、手水舎の作法二礼二拍手一礼を意識しながら、ぜひ東国三社めぐりで歩いてみてください。

参考文献

歴史・学術参考

  • 三浦佑之『口語訳 古事記 神代篇』文春文庫
  • 戸部民夫『「日本の神様」がよくわかる本』PHP文庫

神社公式・自治体/観光公式

  • 鹿島神宮公式(御由緒・御祭神・境内案内・要石・武甕槌大神と韴霊剣)
  • 香取神宮公式(御由緒・御祭神・境内案内・楼門と本殿)
  • 息栖神社(東国三社・忍潮井)
  • 茨城県公式観光いばらきおでかけサイト
  • 千葉県公式観光「ちば観光ナビ」(香取神宮)

補助参考

  • 『古事記』(岩波文庫・倉野憲司校注)
  • 『日本書紀』(岩波文庫・坂本太郎ほか校注)

※ 本記事の画像はChatGPT 等の生成AIによる象徴的なイメージ画像です。実際の景観とは異なる場合があります。詳細は免責事項をご覧ください。

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この記事を書いた人

あやとき編集部は、40代の編集メンバーで運営しています。子を持つ親としても、一人の人間としても、暮らしに息づく神社との関わりを大切にしながら、全国の神社文化を丁寧に読み解いていきます。

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