平安時代の歴史物語『大鏡(おおかがみ)』に、こんな場面があります。花山天皇(かざんてんのう)が位を捨てて出家するために、ひそかに寺へ向かっていました。その途中で安倍晴明(あべのせいめい)の家の前を通ったとき、中から晴明の声が聞こえてきたそうです。現代の言葉にすると「天皇が退位されるとみられる天の異変があった。式神(しきがみ)一人、内裏へ行って知らせよ」。
空の星から天皇の退位を読み取り、目に見えない式神に用事を言いつける。いまの私たちが思い浮かべる「陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明」の姿が、ここにはもう出そろっています。ただ、『大鏡』が書かれたのは、晴明が亡くなってからおよそ100年たったころだと考えられています。
では、晴明と同じ時代を生きた人たちは、晴明をどう書き残していたのか。調べていくと、晴明の話は「いつ書かれたか」によって中身がはっきり変わることに気づきました。この記事では、貴族の日記に残る晴明から始めて、式神の話、狐の母の話がそれぞれいつ生まれたのかを順に見ていきます。そのうえで、陰陽道とはどんな仕事だったのか、晴明神社が晴明をどう祀っているのかも確かめます。
- 安倍晴明は平安時代に実在した人物で、系図類では921年に生まれ1005年に85歳で亡くなったとされます。名前の読み方は、実は確定していません
- 陰陽道の出発点は、朝廷の役所である陰陽寮(おんみょうりょう)で扱われた占いと天文・暦の技術です。陰陽寮は天文・暦・占い・時刻をまとめて受け持ち、陰陽道は平安時代から祓いや祭りなどのまじないを多く取り入れて広がっていきました
- 同じ時代の貴族の日記に出てくる晴明は、占いや禊(みそぎ)、雨乞いの祭りを行う朝廷の専門職です
- 式神や術比べの話が広く書かれるのは、晴明の死後およそ100年の説話集からとされます。狐の母・葛の葉(くずのは)の話は、先行する語り物や芝居を経て、江戸時代の浄瑠璃(1734年初演)で広く知られるようになりました
- 晴明神社は晴明その人を神として祀る神社で、神社自身は魔除け・厄除けの神社と案内しています
- 陰陽道は明治3年(1870年)に公の制度としては廃止されました。ただ、暦の吉凶の注という形で、いまのカレンダーにも名残があります
安倍晴明はどんな人だったのか

先に結論から書きます。安倍晴明は、平安時代の朝廷で天文と占いを担当した、実在の役人です。伝説の中だけの人物ではありません。
系図類では、晴明は延喜21年(921年)に生まれ、寛弘2年(1005年)の旧暦9月26日に85歳で亡くなったとされています。父は安倍益材(あべのますき)と伝わります。陰陽道は賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)の父子に学び、天文博士(てんもんはかせ)をはじめとする役職を務めて、位は従四位下(じゅしいのげ)まで上ったと、複数の事典が書いています。天文博士は、星や空の異変を観測して吉凶を占い、天皇に報告する役目です。
晴明が書いたことが確実な本として残っているのは、『占事略決(せんじりゃっけつ)』という占いの書1巻だけだとされます。のちに晴明の著作とされた『簠簋内伝(ほきないでん)』という書もありますが、こちらは晴明の名を借りて後の時代に作られたと考えられています。
意外なのが名前の読み方です。「せいめい」と読むのがふつうですが、これは漢字を音読みした慣用の読みで、当時どう呼ばれていたかは確定していません。「はるあき」「はるあきら」と読む説もあります。
陰陽道はもともと朝廷の役所の技術だった
晴明の仕事を知るには、陰陽道(おんみょうどう)とは何かを先に押さえておく必要があります。陰陽道というと、呪文を唱えて鬼を退ける神秘の術を思い浮かべるかもしれません。けれども、もとの意味はずっと実務的です。
7世紀の後半から平安時代にかけての朝廷には、中務省(なかつかさしょう)という役所の下に陰陽寮が置かれていました。国立国会図書館の解説「日本の暦」は、陰陽寮を「暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所」と説明し、「暦と占いは分かちがたい関係にありました」と書いています。ウィキペディアの「陰陽道」の項は、陰陽道・天文道・暦道の「道」は、もともとこの役所の部署ごとの技術を指す言葉で、思想や宗教の体系を指す言葉ではなかったと説明しています。ただ、陰陽道はやがて、泰山府君祭のような祭りや祓い、まじないも多く取り入れ、宮廷から民間へと広がっていきました。事典はその呪術的・信仰的な面にも触れています。
陰陽寮にどんな人が置かれていたのかを並べてみると、仕事の中身がよく分かります。
- 陰陽師
- 占いで吉凶を判断し、土地の良し悪しを見る
- 陰陽博士
- 陰陽生(学生)に陰陽の術を教える
- 天文博士
- 星や空の様子を観測し、異変があれば封をして天皇に報告する。晴明が務めた役職
- 暦博士
- 翌年の暦を作り、暦生(学生)を教える
- 漏刻博士
- 水時計で時刻をはかり、鐘や太鼓で知らせる
占い・天文・暦・時刻。いまなら気象台と天文台と占い師が別々に受け持ちそうな仕事を、一つの役所がまとめて扱っていたわけです。平凡社の『世界大百科事典』によれば、手本にした唐では天文・暦の役所と占いの役所は別の組織でした。日本はそれを一つの寮にまとめています。
もう一つ押さえておきたいのが、朝廷で神々を祀る祭祀は、陰陽寮の本来の担当ではなかったことです。律令の決まりでは、神々の祭祀を受け持ったのは神祇官(じんぎかん)という別の役所でした。陰陽道は神道と影響し合いながら育ちましたが、神社の信仰そのものとは出どころが違います。
その陰陽寮の中で、晴明は天文の専門家として頭角を現しました。師の賀茂保憲は、息子の賀茂光栄(かものみつよし)に暦道を、弟子の晴明に天文道を伝えたとされます。国立国会図書館の解説も、平安時代からは暦を賀茂氏が、天文を晴明を祖とする安倍氏が専門家として受け継いでいったと書いています。
陰陽道のもとになった陰陽五行(いんようごぎょう)の考え方については、『五行思想と神道のつながり』でくわしく扱っています。
貴族の日記に残る晴明の仕事

晴明が同時代にどう書かれていたのかを知る手がかりは、当時の貴族が書いた日記です。藤原道長の『御堂関白記(みどうかんぱくき)』や、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』などに、晴明の名前が出てきます。
事典や研究の整理で紹介されている主な記録を、年の順に並べると次のようになります。
- 天徳4年(960年)…40歳で天文得業生(てんもんとくごうしょう)。陰陽寮で天文を学ぶ学生の身分です。晴明が記録に現れるのはこの年が最初だと、事典は書いています
- 天禄2年(971年)…研究者の整理によれば、この年に天文博士を兼ねることが認められました
- 正暦4年(993年)…『小右記』によると、一条天皇が急な病になったときに禊を奉仕し、回復したことから位を上げられました
- 長保2年(1000年)…新しく建てた内裏へ天皇が移る儀式で、反閇(へんばい)という邪気を払う足の運びを奉仕しました
- 寛弘元年(1004年)…『御堂関白記』によると、日照りが続くなかで雨乞いの五龍祭(ごりゅうさい)を行い、雨が降ったことで一条天皇から褒美を与えられました
並べてみると、日記の中の晴明は、天皇や貴族に頼まれて占い、お祓いや祭りを行う専門職として書かれています。晴明は80代になっても、朝廷の大事な場面に呼ばれていました。
晴明は天文の仕事のほかに、主計権助(かずえのごんのすけ)や左京権大夫(さきょうのごんのだいぶ)などの役職も務めました。二人の息子も天文博士などに任じられ、安倍氏は晴明の代に、賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての足場を築いたと考えられています。子孫がのちに土御門家と呼ばれたのは、晴明の家が土御門(つちみかど)の北、西洞院(にしのとういん)の東にあったためとされます。ただ、家の名として「土御門」を名乗るようになったのは、晴明から何代も下った室町時代の有宣(ありのぶ)のころからとみられています。
晴明の役職については、「陰陽寮のいちばん上の役職である陰陽頭(おんみょうのかみ)を務めた」と紹介されることもあります。後の章で見る狐の母の物語でも、ウィキペディアの「葛の葉」の項がまとめたあらすじでは、晴明は天皇の病気を治して陰陽頭に任じられ、そのあとで天文博士になったと語られています。
ところが、ウィキペディアの「安倍晴明」の項は、晴明は陰陽頭には就かなかったが、位は陰陽頭より上だったと書いています。「陰陽寮」の項でも、晴明は陰陽頭に昇らず、昇ったのは次男の安倍吉昌だったと説明されています。陰陽頭は従五位下(じゅごいのげ)にあたる役職なので、従四位下まで上った晴明のほうが位は高かったことになります。
一方で、同じウィキペディアでも「土御門家」の項は、晴明が「平安時代中期に陰陽頭となり」と書いています。子孫の安倍氏がのちに陰陽頭を代々務めたことは、「陰陽道」の項やコトバンクの事典にも出てきます。説明が分かれているのは、晴明本人が就いたかどうかです。この記事では、事典どうしで一致している天文博士と従四位下を、晴明の肩書きとして書いています。
ここで一つ、国立国会図書館の解説に面白い一文があります。陰陽寮が作った暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、平安時代の貴族は毎日この暦に従って行動し、その余白に日記を書くことが多かったというのです。晴明の五龍祭を書き留めた藤原道長の『御堂関白記』も、具注暦に書かれた日記で、道長自筆の本が今も残り国宝になっています。
晴明の仕事ぶりは、陰陽寮が作った暦の上に、貴族が毎日の出来事を書き残してくれたことで今に伝わっています。私はこの点に、晴明と暦の深いつながりを感じます。
式神と術比べの話はいつ生まれたのか

では、式神を使い、ほかの陰陽師と術を比べて勝つ晴明は、いつ現れたのでしょうか。晴明を登場させる作品を、書かれた時代の順に並べてみました。
| 書かれた時代 | 作品 | そこに出てくる晴明 |
|---|---|---|
| 平安時代の中ごろ(晴明が生きていたころ) | 『小右記』『御堂関白記』など貴族の日記 | 占いや禊、祭りを行う朝廷の専門職 |
| 平安時代の終わりごろ(12世紀前半ごろ・死後およそ100年) | 『大鏡』『今昔物語集』 | 天の異変から花山天皇の退位を知る。式神を家の用事に使う。術比べで播磨の陰陽師を懲らしめる |
| 鎌倉時代(13世紀) | 『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』 | 藤原道長を狙った呪いを見破り、呪いをかけた道摩法師(どうまほうし)を見つけ出す |
| 南北朝時代 | 『簠簋内伝』 | 陰陽道の秘伝書の著者とされる(晴明の名を借りた書と考えられている) |
| 江戸時代(1734年初演) | 浄瑠璃『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』 | 父は安倍保名(あべのやすな)、母は狐の葛の葉。蘆屋道満(あしやどうまん)と張り合う |
| 昭和の終わりから平成 | 夢枕獏の小説『陰陽師』と、平成に入ってからの映画化など | 平安の都で怪異に向き合う天才陰陽師 |
こうして並べると、今に残る作品で見るかぎり、式神や術比べの話が作品に広く出てくるのは、晴明の死からおよそ100年後の12世紀前半からだと考えられます。
冒頭の『大鏡』の場面も、このころの作品です。
名前が出てこない時期もあった
もう一つ興味深いのは、晴明がずっと有名だったわけではないらしいことです。ウィキペディアの「安倍晴明」の項は、『大鏡』や『今昔物語集』と同じころ、あるいは少しあとの『江談抄(ごうだんしょう)』『中外抄(ちゅうがいしょう)』には、ほかの陰陽師の名前は出てきても晴明の名前は出てこないと指摘しています。同じ項によれば、このころは「陰陽道といえば賀茂氏」と見られる時代が長く続き、安倍氏にも陰陽道の才を示す人はいたものの、早くに亡くなる人や内輪の争いが多い時期だったとされます。
そのなかで、晴明の流れをくむ安倍氏が、自分たちの立場を安定させるために先祖の晴明をたたえる活動を行ったのではないかと推測されています。さらに時代が下ると、陰陽師が各地へ散って土地に根づくのにつれて、晴明の伝説も各地へ広がりました。なかでも下級の陰陽師の集団は、生業とする占いに権威を持たせるために晴明の伝説を大いに使ったとも考えられています(『世界大百科事典』横井清)。
私が注目したのは、晴明の名前が広く知られるようになったのが、亡くなってから100年ほどたってからだという点です。私は、晴明の伝説は一人の天才の話であると同時に、立場を守ろうとした子孫や、占いを生業にした人たちが、それぞれの時代に語り直してきた話でもあるのではないかと考えています。
狐の母と蘆屋道満の物語は江戸の芝居から広まった

晴明の母は狐だった、という話を聞いたことがあるかもしれません。この話がいちばん広く知られるきっかけになったのは、江戸時代の享保19年(1734年)に大坂の竹本座で初演された浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』です。作者は初代竹田出雲(たけだいずも)で、翌年には歌舞伎にもなり、いまも上演される人気の演目になっています。
ただ、狐の母という設定そのものは、この浄瑠璃が初めて作ったものではありません。ウィキペディアの「葛の葉」の項は、葛の葉を室町時代に作られた晴明の出生説話『信太妻(しのだづま)』の登場人物と説明しています。この話は説経節(せっきょうぶし)という語り物でも語られ、年がはっきりしているものでは、延宝2年(1674年)に、題に「しのたづま」とある古浄瑠璃(こじょうるり)が作られています。
1734年の『芦屋道満大内鑑』は、こうして何度も語り直されてきた話の中で、いちばん広く知られるようになった作品です。室町時代の説話も江戸時代の芝居も、晴明が生きていたころの記録には出てきません。狐の母の話は、晴明が亡くなってから数百年のあいだに、形を変えながら受け継がれてきた物語だと考えられています。
この作品では、晴明の父は安倍保名という人物、母は和泉国の信太(しのだ)の森に住む白狐が姿を変えた葛の葉とされています。正体を知られた葛の葉が、書き置きを残して幼いわが子と別れ、信太の森へ帰っていく場面がよく知られています。晴明と張り合う陰陽師として蘆屋道満が登場するのも、この系統の物語です。
道満のもとになった人物の一人は、鎌倉時代の説話集に出てくる道摩法師と考えられています。道摩と道満を別人とみる説もあります。『宇治拾遺物語』などでは、藤原道長に呪いをかけようとした陰陽師として描かれ、晴明に見破られます。『世界大百科事典』によれば、別の書物では同じ人物が「道満」と書かれ、晴明と張り合う僧形の陰陽師として語られました。説話の中の短い対立は、江戸時代の芝居でライバルの物語に大きく育ち、別に語り継がれてきた狐の母の話と一つに結びついたわけです。
この物語にちなんで、晴明ゆかりの地とされる場所が大阪にあります。大阪市阿倍野区の阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)の境外社である安倍晴明神社は、晴明がこの地で生まれたという社伝を持っています。和泉市の信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)は、葛の葉伝説の森とされる場所です。どちらも、史料で確かめられる晴明の経歴とは別に、物語とともに語り継がれてきた場所として訪ねると、見え方が変わるはずです。
晴明の一生に沿って並べるゆかりの地
大阪の2か所に、京都の晴明神社と福井県おおい町の名田庄(なたしょう)を加えると、晴明とのつながり方が場所ごとに違うことが分かります。それぞれの神社の由緒や案内をもとに、晴明の一生の順に並べてみました。
- 生まれる前の話…大阪府和泉市の信太森葛葉稲荷神社。晴明の母とされる白狐・葛の葉の伝説の舞台として紹介されています。神社の由緒は、創建を和銅元年(708年)と伝えています。一方、ウィキペディアの同社の項によれば、もとは聖神社(ひじりじんじゃ)の末社とされる社を地元の庄屋が屋敷の神として祀ったもので、稲荷神を迎えたのは1740年ごろ、「葛葉」の名には元禄のころの歌舞伎の影響があるとされます。庄屋が葛の葉の話をもとに、屋敷の庭続きに伝説の場所をつくったのではないか、という国文学者の片桐洋一の推測もあります
- 誕生…大阪市阿倍野区の安倍晴明神社。晴明誕生の地と伝える場所の一つで、神社の由緒は、晴明が天慶7年(944年)にこの地で生まれたと伝えています
- 亡くなったあと…京都市上京区の晴明神社。晴明のみたまを鎮めるため、寛弘4年(1007年)に屋敷跡へ創建されたと伝えられています
- 子孫の時代…福井県おおい町の名田庄。応仁の乱のころ、晴明の子孫の土御門家が領地だった若狭国の名田庄へ移ったとされ、いまも天社土御門神道の本庁が置かれています
並べてみて気づいたことが二つあります。一つは、阿倍野の安倍晴明神社が社伝として伝える生まれ年の944年が、系図類の921年とは20年以上ずれていることです。もう一つは、安倍晴明神社も創建を寛弘4年(1007年)としていて、こちらは花山法皇の命で創建されたと伝えていることです。京都と大阪の2社が同じ年を伝えていても、それは史料で確かめられた事実ではなく、それぞれの神社が守ってきた社伝として受け取るのがよいと私は考えています。
名田庄は、晴明本人の記録には出てこない土地です。それでも応仁の乱のあと、晴明の子孫の土御門家が戦乱を避けてこの地に移り、当主の何代かはここに葬られて、いまも墓所が残っています。京都へ戻ったあとも、領地としての関わりは続きました。こうした縁から、名田庄も晴明にゆかりのある土地といえます。いまこの地で天社土御門神道を守っているのは、土御門家に仕えた家臣の家筋の人たちです。
生まれた場所とお墓の言い伝えは各地にある
阿倍野の安倍晴明神社を「晴明誕生の地と伝える場所の一つ」と書いたのは、晴明が生まれたとされる土地がほかにもあるからです。ウィキペディアの「安倍晴明」の項も、経歴の中では921年に生まれたとされることだけを書き、生まれた場所は各地の言い伝えとして別にまとめています。並べてみると、それぞれの土地が拠りどころにしている書物や伝えが違います。
- 奈良県桜井市の安倍文殊院…寺に残る口伝では、晴明の幼いころの名である童子丸が、延喜21年(921年)に安倍の地で生まれたと伝えています
- 大阪市阿倍野区…葛の葉の物語にもとづく伝えで、安倍晴明神社の由緒は、天慶7年(944年)にこの地で生まれたとしています
- 滋賀県大津市の坂本…ウィキペディアによれば、『簠簋袖裡伝』という書に、花山天皇の代に坂本で生まれたと書かれているそうです
- 茨城県筑西市の猫島…『簠簋内伝』の注釈書である『簠簋抄(ほきしょう)』に、晴明が猫島で生まれたという話が記されているとされます。筑西市は、旧明野町の猫島を晴明の出身地と伝わる場所として案内していて、猫島の晴明橋公園には晴明生誕の伝説を記した石碑があります
- 讃岐国(いまの香川県)…『日本大百科全書』は「讃岐国(香川県)の人という伝説もある」と紹介しています。ウィキペディアによれば、場所の書き方も書物によって分かれ、香東郡井原庄とするものと、丸亀藩の地誌『西讃府志』のように香川郡由佐とするものがあります
生まれた年も一つにそろいません。安倍文殊院の口伝は系図類と同じ921年、阿倍野の由緒は944年です。坂本の伝えにある花山天皇の在位は984年から986年なので、系図類の生まれ年とは60年以上離れています。ウィキペディアの経歴の節も、晴明の幼いころについては確かな記録がないとしています。どの場所の話も、その土地や寺社が伝えてきた言い伝えです。
お墓についても、言い伝えは一つではありません。晴明神社は、毎年9月26日を晴明の御命日として京都の嵯峨の墓所でお祭りを行っていて、アクセスの案内にもこの墓所を載せています。晴明が亡くなったのは、暦の上では旧暦の9月26日です。ウィキペディアによれば、荒れていた嵯峨の墓所は昭和47年(1972年)に晴明神社などの協力で神道の形に改められ、いまは晴明神社の飛び地の境内として管理されています。『世界大百科事典』は、京都の東福寺の門前にある遣迎院(けんこういん)の竹やぶの中に墓があるという一説も紹介しています。
京都の外にも、晴明の供養塔や墓と伝わる場所があります。鳥取県琴浦町の赤碕(あかさき)にある赤碕塔は、鎌倉時代の終わりごろの作とされる高さ約3メートルの石の塔で、昭和31年(1956年)に鳥取県の指定保護文化財になりました。琴浦町の公式サイトに載っている町長のコラムは、町内の講演で紹介された説として、元禄7年(1694年)の書物に「晴明たうまん」と書かれていることなどから、2つの塔を晴明と蘆屋道満の供養塔とみる考え方を紹介しています。
岡山県浅口市金光町の占見にも、晴明の墓と伝わる場所があります。ウィキペディアによれば、ここには明治22年(1889年)に建てられた晴明霊墳の碑があります。浅口市の公式サイトは、占見という地名も晴明の占いにちなむといわれると紹介し、「晴明の遺跡の近くには道満の伝説があります」として、「道満」と刻まれた墓と五輪塔があることも案内しています。
鳥取と岡山では、晴明の塔や碑の近くに、ライバルとされる道満の伝えも残っています。晴明と道満を一組で語る話は、京都から離れた土地にも根づいているわけです。ただ、嵯峨の墓所はいまも晴明神社がお祭りを行う場所で、鳥取と岡山の2か所は文化財や郷土の伝説として伝わる場所です。同じ「晴明のお墓」でも、場所によって性格はかなり違います。
晴明神社は何の神さまを祀っているのか

京都市上京区の晴明神社は、安倍晴明その人を神として祀る神社です。陰陽道の神々を祀っているわけではありません。神社の由緒によれば、創建は寛弘4年(1007年)で、晴明の業績をたたえた一条天皇の命により、晴明のみたまを鎮めるために屋敷跡に社殿が設けられたと伝えられています。
亡くなった人を神として祀る形は、晴明神社だけのものではありません。よく知られた例が、菅原道真を祀る天満宮です。ただ、道真の場合は、雷や災いを祟りとして恐れ、怨霊を鎮めようとした信仰が大きな背景にあります。晴明神社の由緒も「みたまを鎮める」と書いていますが、創建のきっかけとして挙げているのは晴明の偉業をたたえたことで、祟りの話は出てきません。由緒が語る力点は同じではありません。晴明神社の境内にも、道真を祀る天満社があります。人が神として祀られるまでの流れは『天神信仰の系譜』でも扱っています。
神社が伝える晴明公
晴明神社のご由緒は、晴明についてこう伝えています。
村上帝に仕えておられた際には、唐へ渡り、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれ、帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立されました。
晴明神社「ご由緒」
同じご由緒には、晴明が朱雀天皇から一条天皇まで6代の天皇の側近として仕えたことも書かれています。神社のご由緒は、史料の晴明とは別の層で語り継がれてきた信仰の言葉です。
唐へ渡って仙人から教えを受けたという話は、事典が紹介する晴明の経歴には出てきません。ただ私は、これを間違いだとは思っていません。亡くなった人を神さまとして祀り、その人の話を長いあいだ語り継いできたこと自体が、この神社の歴史だと考えているからです。
境内で見られる陰陽道のしるし
晴明神社の境内には、陰陽道にちなむものがいくつもあります。神社の境内案内から、主なものを挙げます。
- 晴明桔梗(せいめいききょう)…一の鳥居の額に掲げられた星形の社紋で、五芒星(ごぼうせい)とも呼ばれます。鳥居の額には神社名を掲げることが多いので、社紋を掲げるのは珍しいと神社は案内しています。神社は、晴明桔梗を陰陽道に用いられる祈祷呪符のひとつと説明しています
- 晴明井(せいめいい)…晴明が念力で湧き出させたと伝わる井戸です。水の湧き出るところがその年の恵方を向くように、立春の日に向きを変えています
- 一條戻橋(いちじょうもどりばし)と式神の像…晴明が式神を橋の下に隠していたという伝説にちなむものです。本物の一条戻橋は神社から南へ100メートルほどの堀川に架かり、境内には先代の橋の親柱を使った小さな橋が再現されています
- 厄除桃…桃は中国の言い伝えや陰陽道で魔除け・厄除けの果物とされ、自分の厄を桃に撫でつけるよう案内されています
一の鳥居の星形を見ると、晴明が考え出した印のように感じるかもしれません。ただ、五芒星という形そのものは、晴明よりずっと前からある図形です。ウィキペディアの「五芒星」の項は、いちばん古い使い方を紀元前3000年ごろのメソポタミアとし、シュメール人はこの形をUB(ウブ)と呼んだと書いています。五芒星の起源をたどった英語の論文では、天体を表したとみられる五つの角の形は紀元前3500年ごろのメソポタミアまでさかのぼるとされます。五つの向きに木星・水星・火星・土星・金星を当てはめる考え方は、同じ論文で、いまのイラン南西部のスーサ平原やその東の高地で見つかった粘土板(紀元前3000〜2500年ごろ)について紹介されています。
同じ項によると、晴明はこの形を陰陽五行(木・火・土・金・水)のしるしとして使い、キキョウの花を図案にした桔梗紋の変形であることから「晴明桔梗」とも呼ばれます。陰陽道では、魔除けの呪符として伝えられてきたそうです。ただ、事典が紹介する晴明と同じ時代の記録には、晴明本人がこの印を使ったという話は出てきません。形は古くからあり、そこに五行の意味を重ねて晴明の名と結びつけてきたのは、後の時代の陰陽道の伝えと晴明神社の語りだと受け取るのがよさそうです。
境内案内には、陰陽道の考え方を形にしたものがほかにも載っています。参道の脇に立つ日月柱(にちげつちゅう)は、柱の上の石像が南に「日」、北に「月」を配していて、神社は「まさに陰陽を表しています」と説明しています。塀重門(へいじゅうもん)の四神門(しじんもん)には、石柱の上に東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武という、四つの方角を守る四神が掲げられています。
ただ、これらは晴明が生きていた平安時代からあるものではありません。日月柱の石柱はもともと四神門の門柱として使われていたもので、「明治37年9月晴明公九百年祭紀念」と刻まれていると案内されています。本殿も明治38年(1905年)に建てられたものです。日月柱の石柱や本殿のように、いま境内で見られるものには明治の九百年祭のころのものが含まれています。
境内を回るときは、目の前のものが「陰陽道の考え方」を形にしたものか、「晴明その人の逸話」にちなむものかを、大まかに分けて見ると分かりやすくなります。これは神社の分け方ではなく、この記事での見方です。日月柱と四神門は陰陽道の考え方の側、一條戻橋と式神の像は晴明の逸話の側です。ただ、四神門にも、晴明が住んでいたころはひとりでに開いたという話が伝わっています。晴明井も両方を持っていて、晴明の念力で湧いたという言い伝えがある一方で、その年の恵方に向きを合わせるという暦の考え方も形にしています。
神社自身は、晴明神社を「魔除け」「厄除け」の神社と説明しています。いちばん大切な祭りである晴明祭は、近年は秋分の日とその前夜に行われています。前夜の宵宮祭では湯立神楽が奉納され、秋分の日の神幸祭では神輿の行列が町を回ります。神社が晴明の御命日と案内する毎年9月26日には、嵯峨の墓所で祭りが行われています。厄年の数え方と厄払いについては『厄年の数え方と早見表』をご覧ください。
陰陽道はなぜ禁止され、今どこに残っているのか
晴明の子孫の土御門家は、その後も長く陰陽道の中心にいました。戦国時代には賀茂氏の本家が途絶え、暦の仕事も安倍氏の側に移ったとされます。ただ、賀茂氏の家は分家の幸徳井家が継いで江戸時代に再び興され、貞享の改暦(1685年)のあとは、幸徳井家が暦に注を書き加える仕事を担いました。土御門家は、豊臣秀吉の時代に当主の久脩(ひさなが)が尾張へ追われて力を失いますが、関ヶ原の戦いのあと徳川家康に認められて再興されました。17世紀の終わりには、全国の民間の陰陽師を支配し、免許を与える権限を土御門家が得ています。
終わりは明治時代に来ました。
明治3年(1870年)、新政府は太政官布告を出し、公に認められた職業としての陰陽師を禁じました。この布告は天社禁止令(てんしゃきんしれい)と呼ばれています。同じ年に陰陽寮も廃止され、土御門家は暦を作る役目から外されました。古い暦をやめて新しい暦へ切り替える明治の改暦にも、土御門家は関わっていません。
では陰陽道はすっかり消えたのかというと、そうではありません。福井県おおい町の天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)や、高知県の山あいに伝わるいざなぎ流のように、陰陽道の流れをくむ要素を伝えるものが今もあります。いざなぎ流は、陰陽道の要素を受け継ぎながら、土地の信仰とも結びついてきた民間の信仰です。なお、現在の土御門家の子孫は、天社土御門神道にはほぼ関わっていないとされます。
もっと身近な名残もあります。カレンダーに小さく刷られている吉凶の注、暦注(れきちゅう)です。前の章で見たように、陰陽寮が作った具注暦には、日ごとの吉凶を示す言葉が書き込まれていました。その多くはいまでは使われていませんが、暦に日の吉凶を書き添える習慣そのものは、いまのカレンダーにも見られます。
ただし、いま見かける注がすべて陰陽寮の時代からあるわけではありません。たとえば大安や仏滅の六曜は、ずっとあとに広まったものです。暦の注がどの段に書かれ、どこから来たのかは、『神社参拝に良い日はあるのか』を入り口に、『六曜とは』『天赦日とは』で順にまとめています。
よくある質問
- 晴明神社は怖い神社なのですか?
境内に星形の社紋や式神の像があるため、そう感じる人もいるようです。ただ、神社自身は晴明神社を「魔除け」「厄除け」の神社と案内しており、厄除けの祈願に多くの人が訪れています。星形の晴明桔梗も、神社は陰陽道の祈祷呪符のひとつと説明しています。お参りの作法はほかの神社と同じです。
- 安倍晴明の子孫は今もいるのですか?
晴明の子孫とされる家としては、嫡流の土御門家と、江戸時代にそこから分かれた倉橋家があり、どちらも明治以降は華族に列し、子孫が今もいます。ただし家業としての陰陽道は明治3年(1870年)に終わっています。また、晴明から続く男系の血筋は江戸時代の後半に途絶え、その後は養子や女系を経て家が続いたとされます。
- 陰陽道にも、いちばん上の神さまはいるのですか?
陰陽道の祭りでは、泰山府君(たいざんふくん)という神がとくに重んじられました。人の寿命や生死をつかさどる神とされ、晴明が泰山府君祭を行った話は『今昔物語集』にも出てきます。ただ、陰陽道はもともと陰陽寮という役所の技術の呼び名で、一人の神を信仰する教団のような宗教ではありませんでした。
- 式神は本当にいたのですか?
式神は、辞典では陰陽師が使ったとされる鬼神と説明されています。晴明神社も、式神は人の目には見えないものと案内しています。事典が紹介する晴明と同じ時代の日記の記録は、占いや祭りといった仕事についてのもので、式神を使う晴明の話が作品に広く出てくるのは、死後およそ100年の説話集からとされます。一方で晴明神社には、晴明の奥さんが式神を怖がったため、一条戻橋のたもとに隠して、用のあるときだけ呼び出していたという話が伝わっています。実際にいたかどうかを史料で確かめることはできませんが、晴明の伝説とともに長く語り継がれてきた存在です。
- 京都の晴明神社のほかに、晴明ゆかりの神社やお寺はどこにありますか?
晴明を祀る神社や、晴明の伝えを持つお寺は、大阪府と奈良県にもあります。大阪市阿倍野区の安倍晴明神社は阿倍王子神社の境外末社で、本社の阿倍王子神社は南へ50メートルほどのところにあります。同じ大阪府の和泉市には、葛の葉伝説ゆかりの地として知られる信太森葛葉稲荷神社があります。奈良県桜井市の安倍文殊院は、晴明が安倍の地で生まれたという口伝を持つお寺で、寺の案内では桜井駅から歩いて約20分です。京都の晴明神社は、神社の案内では地下鉄の今出川駅から歩いて約12分、嵯峨の墓所は京福電鉄の嵐山駅から歩いて約5分です。このほか、生まれた場所やお墓の言い伝えが残る土地が、茨城県・鳥取県・岡山県などにもあります。晴明とのつながり方は、社伝、寺の口伝、物語の舞台と、場所によって違います。
まとめ
この記事では、安倍晴明がどんな人だったのかを、書かれた時代の順に確かめてきました。
- 安倍晴明は平安時代に実在した朝廷の専門職で、天文博士などを務め、系図類では921年に生まれ1005年に85歳で亡くなったとされる
- 陰陽道の出発点は陰陽寮という役所で扱われた技術で、陰陽寮は占い・天文・暦・時刻をまとめて受け持った。朝廷の神々の祭祀は、律令の決まりでは神祇官という別の役所の担当だった
- 同じ時代の貴族の日記に残る晴明は、占いや禊、雨乞いの祭りを行う専門職として書かれている
- 式神や術比べの話が作品に広く出てくるのは、死後およそ100年の12世紀前半からとみられる。同じころに晴明の名前が出てこない説話集もあり、子孫による顕彰が推測されている
- 母が狐の葛の葉だという話と蘆屋道満との対立は、先行作を経て、1734年初演の浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』で広く知られるようになった
- 晴明が生まれた場所やお墓の言い伝えは各地にあり、拠りどころにする書物や伝えの年がそれぞれ違う
- 晴明神社は晴明その人を神として祀る神社で、ご由緒は史料とは別の層で晴明公を語り継いでいる
- 陰陽道は明治3年(1870年)に公の制度としては終わったが、暦の吉凶の注という形でいまのカレンダーにも名残がある
冒頭の『大鏡』の場面をもう一度思い出してみてください。天の異変から天皇の退位を知る『大鏡』の晴明は、日記に残る天文博士の仕事ぶりから生まれた話かもしれませんし、100年のあいだに育った伝説かもしれません。晴明の話を見かけたら、それがいつ書かれた晴明なのかを気にしてみると、同じ逸話でも受け取り方が変わります。晴明神社をお参りするときには、あなたはどの時代の晴明を思い浮かべるでしょうか。
参考文献
公式資料(公的機関・神社)
- 国立国会図書館「日本の暦」第1章 暦の歴史「暦の渡来と普及」(陰陽寮が暦・天文・占いをつかさどったこと、暦の賀茂氏と天文の安倍氏、具注暦と暦注、貴族が暦の余白に日記を書いたこと)
- 晴明神社「ご由緒」(創建の由緒、神社が伝える晴明公、魔除け・厄除けの神社であること)
- 晴明神社「境内案内」(晴明桔梗、一條戻橋と式神の像、晴明井、厄除桃、齋稲荷社、日月柱、四神門、本殿)
- 晴明神社 公式ブログ「式神をご存知でしょうか?」(式神は人の目に見えないこと、一条戻橋のたもとに式神を隠した話)
- 安倍晴明神社「由緒」(天慶7年〔944年〕に阿倍野で生まれたという伝え、寛弘4年〔1007年〕に花山法皇が創建したという伝え、阿倍王子神社の境外末社で本社は南に50メートル)
- 晴明神社「年中行事」(晴明祭の宵宮祭と神幸祭、嵯峨墓所祭)
- 晴明神社「アクセス」(神社と嵯峨墓所の所在地、最寄り駅からの徒歩の目安)
- 阿倍王子神社(安倍晴明神社が境外末社であること、両社の位置関係)
- 安倍文殊院「安倍晴明公」・同「アクセス」(童子丸が延喜21年〔921年〕に安倍の地で生まれたという口伝、所在地と桜井駅からの徒歩の目安)
- 筑西市「安倍晴明伝説」(旧明野町猫島の伝承、晴明橋公園の石碑)
- 琴浦町「安倍晴明と山伏」・同「赤碕塔」(赤碕塔の年代・大きさ・県の文化財指定、講演で紹介された供養塔の説)
- 浅口市「史跡・名所」(占見の地名の由来の伝え、道満の伝説と墓)
- 信太森葛葉稲荷神社「由緒」(和銅元年〔708年〕創建という伝え、葛の葉の物語)
補助参考(事典・百科事典・読者の疑問)
- コトバンク「安倍晴明」(『世界大百科事典』早川庄八・横井清、『日本大百科全書』下出積與、『ブリタニカ国際大百科事典』ほか。経歴、占事略決と簠簋内伝、土御門家の名の由来、伝承と作品化、芦屋道満大内鑑、讃岐の人という伝説、遣迎院の墓の一説、子孫の土御門家を陰陽頭の家とする記述)
- コトバンク「陰陽道」(『世界大百科事典』ほか。南北朝の『簠簋内伝』、戦国期の賀茂家嫡流の断絶、土御門家の追放と江戸期の復興、支流幸徳井氏による賀茂家の復興、陰陽道の呪術的・信仰的な面)
- コトバンク「陰陽寮」(職員の構成、唐との組織の違い、明治3年の廃止)
- ウィキペディア「安倍晴明」(史実上の人物像と創作作品での人物像、同時代の日記の記録、江談抄・中外抄に名が出ないこと、末裔、陰陽頭には就かず位は頭より上だったこと、生誕地と墓所の各地の伝え)/同「陰陽道」(部署の技術としての陰陽道、神祇官との分担、戦国時代に暦道が安倍氏へ移ったこと、天社禁止令、現在の名残)/同「土御門家」(晴明が陰陽頭になったとする記述)/同「陰陽寮」(晴明は陰陽頭に昇らず次男の吉昌が昇ったこと)/同「晴明神社」/同「芦屋道満大内鑑」/同「葛の葉」(あらすじで晴明が陰陽頭に任じられること、『簠簋抄』)/同「阿倍王子神社」/同「信太森葛葉稲荷神社」(社の成り立ち、稲荷神を迎えた年代、片桐洋一の推測)/同「天社禁止令」/同「天社土御門神道」(名田庄への移住と墓所、現在の担い手、当主久脩の尾張への追放と帰京)/同「陰陽師」(六曜などの暦注がカレンダーに残ること、陰陽頭の位、土御門久脩が家康のもとで宮中へ戻ったこと)/同「蘆屋道満」/同「五芒星」(図形の古い使い方、晴明桔梗)/同「花山天皇」(在位の年)
- コトバンク「式神」(『精選版 日本国語大辞典』。陰陽師が使役するという鬼神)
- 大阪観光局「信太森葛葉稲荷神社」(葛の葉伝説の舞台としての紹介)
- Origins of the pentagram(PMC で公開されている英語の論文。五芒星の古い用例と五惑星の対応)
- Google 検索の「他の人はこちらも質問」および関連検索に現れた安倍晴明・陰陽道・晴明神社に関する疑問(読者の疑問の把握に用いた)
本記事は、2026年9月に国立国会図書館の公開資料、晴明神社の案内、事典と百科事典を確認し、安倍晴明の記録と伝説を書かれた時代の順に本記事独自に整理したものです。晴明の経歴には研究者のあいだで説が分かれる点があり、神社や地域に伝わる由緒は信仰の伝承として紹介しています。本記事のご利益に関する記述は、神社の案内と文化的な伝承にもとづくもので、効果を保証するものではありません。実際にお参りされる際は、参拝先の最新の案内をご確認ください。
