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神在月とは|神々が出雲に集まる話はいつ、どこから生まれたか

晴れた晩秋の朝の稲佐の浜を描いた絵。白い砂浜の波打ち際に、頂に小さな社をのせ足元に小さな鳥居が立つ岩の小島・弁天島がひとつあり、奥に穏やかな日本海と淡い青空が広がる。左上にタイトル「神無月と神在月」を横一行で配したアイキャッチ画像

「10月は全国の神さまが出雲へ出かけるので神無月、神さまが集まる出雲だけは神在月」。こう覚えている人は多いと思います。

ところが、国語辞典を開くと話が変わります。デジタル大辞泉は、神々が出雲に集まるので神がいなくなる月、という説明を「俗説」と書いています。大辞泉が有力としているのは、「神無月」の「な」を「の」と読む「神の月」説です。それでも出雲では今も、神在月のころに全国の神々を迎えて送るお祭りが続いています。この記事では、辞典と徒然草の原文、出雲大社や島根県の資料、国立天文台の暦を突き合わせて、神無月と神在月の話がどこから来たのかを見ていきます。

この記事で分かること
  • 大辞泉は「神々が出雲へ行くので神無月」を俗説とし、「神の月」とする説を有力としていること
  • 鎌倉時代の終わりごろに書かれたとされる徒然草は、神々が伊勢に集まるという説を挙げ、その典拠は無いと書いていること
  • 出雲大社の神在祭は旧暦10月11日から17日までの7日間で、毎年の日付は暦から計算でき、出雲大社の祭日表で確かめられること
目次

神無月・神在月は何月のこと?

先に答えをお伝えします。神無月(かんなづき)も神在月(かみありづき)も、旧暦の10月を指す呼び名です。神無月は広く使われてきた呼び名で、出雲ではこの月を神在月とも呼びます。

明るい和紙の上の横一本の墨線に、新月・三日月・満月・細い月・新月の5つの月の形が左から右へ等間隔に並び、両端の新月の上に朱の短い目印がある図。旧暦の1か月が新月から次の新月の前日までであることを示し、下に銀杏の黄葉が散る

デジタル大辞泉は神無月を「陰暦10月の異称」とし、「かむなづき」とも書くとしています。精選版日本国語大辞典(以下、日国)は見出しを「かみなづき」に立て、「かんなづき」「かみなしづき」などの読みも挙げています。神在月については、大辞泉が「出雲国で、陰暦10月の異称」と説明しています。ここでいう陰暦は日本の旧暦のことで、月の満ち欠けをもとに、閏月(うるうづき)を入れて季節とのずれを直す太陰太陽暦です。

神無月はもともと旧暦10月の呼び名です。今は新暦10月の別名として使われることも多く、ウィキペディアの「神無月」がその使い方にふれています(辞典の説明は旧暦10月の呼び名としてだけです)。ただ、出雲大社が神々を迎えるのは旧暦10月10日の夜で、神在祭(かみありさい)はその翌日から始まります。神迎えも神在祭も、新暦ではおおむね11月で(年によっては12月にかかります)、新暦の10月に行われることはありません。旧暦10月は、新暦ではおよそ10月下旬から12月下旬のあいだの約1か月に当たり、年によって前後します。

旧暦10月がいつになるかは、国立天文台の暦で求められる

旧暦の月は、新月(朔)の日に始まります。いま旧暦と呼ばれているものは、江戸時代の天保暦(てんぽうれき)の決め方にもとづいています。その決め方では、二十四節気のうち「中気(ちゅうき)」と呼ばれる12の節目のどれを含むかで何月かが決まり、10月は「小雪(しょうせつ)」を含む月です。国立天文台が毎年発表する「暦要項(れきようこう)」には、朔の日と二十四節気の日が載っています。この日付に月の決め方を当てはめれば、ふつうの年なら次の三つの段階で旧暦10月の範囲を計算できます。

STEP
STEP 01

暦要項の「二十四節気」の表で、その年の小雪の日を見ます。近年は11月22日ごろで、2026年も11月22日です。

STEP
STEP 02

同じ暦要項の「朔弦望」の表で、小雪の日か、それより前でいちばん近い朔の日を探します。その日が旧暦10月1日です。

STEP
STEP 03

その次の朔の日の前日までが旧暦10月です。10日目が旧暦10月10日になるので、出雲大社の神迎えの日もここから数えられます。

ただし天保暦の決まりでは、冬至・春分・夏至・秋分を含む月を、それぞれ11月・2月・5月・8月にすることが先に立ちます。そのため2033年のように、この手順だけでは旧暦の月が一通りに決まらない年があり、国立天文台もこの「2033年問題」を解説しています。旧暦の月の決まり方は国立天文台の資料で、神在祭の日程はその年の出雲大社の祭日表で確かめてください。

2026年で試してみます。国立天文台の暦要項では、小雪が11月22日、その前でいちばん近い朔が11月9日、次の朔が12月9日です。ここから本記事で計算すると、2026年の旧暦10月は、11月9日(月)から12月8日(火)までになります。旧暦10月10日は11月18日に当たり、後で紹介する出雲大社の祭日表で神迎えが行われる日と重なりました。

暦の節目の考え方は『二十四節気と五節句とは』でも扱っています。

なぜ「神無月」と呼ぶの?

「無」の字があるので、神さまがいない月だと読みたくなります。辞典がこの読み方をどう扱っているか、デジタル大辞泉の説明をそのまま引きます。

語源については、全国から神々が出雲大社に集まるため、諸国に神がいなくなる月の意からという俗説が古くからいわれている。(中略)「な」は「の」の意で、神を祭る月すなわち「神の月」の意とする説が有力。

日国も、「な」は「の」の意味で「神の月」、つまり神祭りの月の意味か、としたうえで、出雲へ集まる話は「俗説には」として紹介しています。この二つの辞典は、出雲の話を語源の本筋には置いていません。ここでいう俗説は、広く言われてきたけれど語源の説明としては根拠が弱い説、という意味です。出雲に神々が集まるという言い伝えそのものが無い、という意味ではありません。

ウィキペディアの「神無月」は、語源ははっきりしないとしたうえで、6月の水無月(みなづき)も「な」を「の」と読んで「水の月」になる、同じ組み立てだと説明しています。ウィキペディアはこれを、いくつかある説のうち有力なものとして紹介しています。「無」の字が入っていても、「無い」と読むとは限らないという見方です。

辞典や百科事典には、ほかにも次のような説が載っています。ジャパンナレッジの連載『日本語、どうでしょう?』の「神無月」の回も、出雲へ集まるという説はとても有名だが、定説になっているとは言えない、としたうえで、説ごとに、それが見える本の名前を挙げています。かっこの中には、説を載せている辞典の名前(連載とは別に、この記事で辞典を開いて確かめたもの)と、連載が例に挙げている本の名前を書きました。辞典の名前が無い項目もあります。次の章で原文を読む『徒然草』第202段のほかは、本そのものの原文をこの記事では確かめていません。

  • 諸社に祭りがない月だから(連載は『徒然草』を挙げる)
  • イザナミが亡くなった月だから(日本大百科全書。連載は『世諺問答』を挙げる)
  • 雷が鳴らなくなる月なので「雷無月(かみなしづき)」(大辞泉・日本大百科全書。連載は『語意考』を挙げる)
  • 数は10より上が無いことから「上無月(かみなしづき)」(日本大百科全書。連載は『和爾雅』を挙げる)
  • 新米で酒を造る月なので「醸成月(かみなしづき)」(大辞泉・日本大百科全書。連載は『嚶々筆語』を挙げる)
  • 霜月祭(しもつきまつり)の前の物忌(ものいみ)の月で、神祭りをしないから、ともされる(世界大百科事典。連載が挙げる説ではない)

名前の記録そのものは古く、日国の「かみなづき」の項は、8世紀の万葉集から「十月(かみなづき)しぐれにあへる黄葉の」という歌を例に挙げています。大辞泉は「神の月」説を「有力」としていますが、ほかの説も載っていて、語源が一つに決まったとまでは言えません。世界大百科事典のように、出雲へ集まる言い伝えから説明を始める事典もあります。ただ、出雲へ集まるという説明を、大辞泉と日国は語源としては俗説と位置づけ、連載も定説とは言えないとしています。「神の月」の説についても、同じ連載は『万葉集類林』の名前を挙げています。

神々が出雲に集まるという話は、いつから語られてきた?

では、神々が出雲に集まるという話は、いつごろから本に出てくるのでしょうか。資料に出てくる順に並べてみます。

朝の光が差す木の文机の上に、古い日本の本が見開きで平らに開かれ、右のページに「徒然草」、左のページに「第二百二段」と薄い墨の縦書きがある静物の絵。神々が伊勢に集まる説を挙げて退けた徒然草第202段を表し、机の端に紅葉した楓の葉が1枚ある
  • 8世紀: 万葉集に「十月(かみなづき)」の歌(日国)。この歌に神々の移動の話は出てこない
  • 平安時代の終わりごろ: 歌学書『奥義抄(おうぎしょう)』(1135〜44年ごろ)。出雲観光協会は、神々が出雲に集まるという伝承はこの本以来さまざまな資料に記されている、と説明している
  • 1310年ごろ: 『山王絵詞(さんのうえことば)』に「留守神」の語(日国が挙げる最初の例)
  • 鎌倉時代の終わりごろ(とされる): 『徒然草』第202段が、神々は伊勢の太神宮に集まるという説を挙げて、根拠が無いと書く

世界大百科事典の「留守神」の項も、神無月に神々が出雲大社に集まるという伝えは平安時代からある、としています。ここで目を引くのは4番目です。徒然草が挙げた説では、神々が集まる先は伊勢でした。兼好は、その説には典拠が無いと書いています。

第202段の原文(國文大觀の翻刻)は、次のとおりです。

十月をかみな月といひて、神事にはゞかるべきよしはしるしたるものなし。本文も見えず。たゞし當月諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。この月萬の神たち、太神宮へ集り給ふなどいふ說あれども、その本說なし。さることならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。

今の言葉にすると、「10月を神無月と言って、神事を控えるべきだと書いたものはない。もとになる文も見当たらない。ただし、この月は諸社の祭りが無いのでこの名があるのか。この月によろずの神々が太神宮(伊勢神宮)へお集まりになるという説もあるが、その根拠はない。もしそうなら、伊勢ではこの月をとくに祭りの月にするはずなのに、その例もない」となります。

この段には、出雲の名前が一度も出てきません。世界大百科事典は、徒然草に伊勢へ集まる説が見えることから、集まる先は「古くは出雲とは決まっていなかったらしい」と書いています。日本大百科全書も、神々を送り迎えする行事について、行き先を出雲と言いはじめたのは出雲信仰と結びついた結果だと説明しています。

「神在月なんて無い」と言い切るのも行き過ぎ

ここまで読むと、反対向きに「神在月は出雲の後付けで、本当は存在しない」と言いたくなるかもしれません。実際に、そう言い切る書き込みも見かけました。

けれど、語源の話と、信仰や祭りの話は分けて考える必要があります。世界大百科事典の旧版は、時代が下ると、出雲が「神在月」の伝承を持つようになったと説明しています。そして今も、出雲大社は旧暦10月に、佐太神社は新暦の11月に、神々を迎えて送るとされる神在祭を行っています。語源としては俗説とされても、その伝承と結び付いた神在祭は今も行われているということです。

徒然草を書いた兼好法師は、「神々が伊勢に集まる」という話について、それが本当なら伊勢ではこの月にとくに祭りが多いはずなのに、そうはなっていない、と書いています。私はこの一節を読んで、聞いた話をそのまま受け取らず、本当ならどうなっているはずかを確かめているところに注目しました。神無月の由来には今もたくさんの説があります。私は、どの説を信じるかを決める前に、その説がどの本に書かれているのかを一つずつ確かめるのが、いちばん確かな調べ方ではないかと考えています。

出雲大社では、神在月に何が行われる?

出雲大社の神在祭の流れは、神々を迎える夜の神迎神事から始まります。ここからは出雲観光協会と観光庁の解説文データベースをもとに、旧暦の日付で流れを追います。

日没直後の稲佐の浜で、白い砂の上に稲わらの菰が海から陸へ一直線に敷かれて通り道になり、その脇で小さな御神火がひとつ燃えている絵。奥に澄んだ群青の空と明るさの残る水平線、岩の小島のシルエットが見える。神々を海から迎える神迎神事の斎場を表す

旧暦10月10日の夜は、神迎神事(かみむかえしんじ)です。出雲大社から西へ1kmほど(出雲大社の案内では約800m)の稲佐の浜(いなさのはま)で、夜7時に御神火が焚かれます。浜の斎場には神籬(ひもろぎ。神さまにお宿りいただくための依り代)が2本立てられ、海に向かって龍蛇神(りゅうじゃしん)がお祀りされます。観光庁のデータベースは、神々は海から稲佐の浜に上がり、セグロウミヘビとして知られる龍蛇に導かれると説明しています。

浜での神事が終わると、神籬は絹垣で覆われ、龍蛇神を先頭に出雲大社へ向かいます。拝殿で神迎祭(かみむかえさい)が行われたあと、神々は本殿の東西にある十九社(じゅうくしゃ)に入るとされます。十九社は神在祭のあいだ神々の宿になる社で、この期間は扉が開かれます。観光庁のデータベースによると、今の十九社は19世紀の初めごろに建てられたものです。

旧暦10月11日から17日までが神在祭です。出雲観光協会は、神々はこの7日間、人には前もって知ることのできない人生のさまざまなことを「神議り(かむはかり)」で決めるといわれ、男女の縁もこのときの神議りで結ばれると伝えています。会議の場所は、出雲大社から西へ950mほどの摂社、上宮(かみのみや)です。

この期間、土地の人は歌や踊りの席を設けず、楽器を鳴らさず、家を建てる工事もしないで過ごしたことから、神在祭は「御忌祭(おいみさい)」とも呼ばれます。神々の会議と宿泊のじゃまをしないように、土地の側が暮らしを慎んだことになります。

旧暦10月17日の夕方は、神等去出祭(からさでさい)です。十九社の神籬が拝殿に移され、祝詞のあと、神職の一人が楼門の扉を三度たたきながら「お立ち~」と唱えます。この瞬間に神々は出雲大社を去るとされます。出雲大社ではさらに旧暦26日にも神等去出祭があり、出雲観光協会によると、神々が出雲の地を去ったことを大国主大神に報告する小さなお祭りです。

出雲大社の神さまである大国主大神については『大国主とは何か』で、本殿の造りは『大社造とは』でまとめています。

2026年の出雲大社の日程

出雲大社の「令和8年出雲大社祭日表」から、2026年の神迎えから神等去出までのおもな日程を抜き出すと、次のとおりです。

11月18日(水)午後7時

神迎神事・神迎祭(旧暦10月10日)

11月19日(木)午前9時

神在祭(旧暦10月11日)

11月23日(月・祝)午前10時

献穀祭・神在祭・縁結大祭(旧暦10月15日)

11月25日(水)午前10時・午後4時

神在祭・縁結大祭(午前10時)、神等去出祭(午後4時)(旧暦10月17日)

12月4日(金)午後4時

第二神等去出祭(旧暦10月26日)

祭日表に載っているのは日付と時刻、お祭りの名前です。曜日と旧暦の日付は本記事で暦から補い、11月25日は二つのお祭りを1行にまとめました。龍蛇神講大祭や古伝新嘗祭など、この期間のほかのお祭りは省いています。出かける前には、出雲大社の最新の案内を確かめてください。

神迎神事を見に行くときに気をつけたいこと

出雲観光協会は、神迎神事について次の3点を案内しています。

  • 観光イベントではないので、観客席はない
  • 神迎神事の日は、斎場となる浜に神さまの通り道として菰(こも)が敷かれるので、その上を歩かない
  • フラッシュを使った写真撮影は神事の妨げになるので控える

出雲大社でのお参りの仕方は『二礼二拍手一礼の正しいやり方』で、出雲大社の四拍手も含めて扱っています。

神々が出雲にいるのは何日間?

神在月という名前から、神々は1か月まるごと出雲にいると思いがちです。けれど、出雲大社で神在祭が行われるのは旧暦10月11日から17日までで、前夜の10日に神々を迎えます。ブリタニカ国際大百科事典も、神在祭を「旧暦の10月11日から17日まで行う神事」と説明しています。

17日に出雲大社を発ったあとの神々について、出雲観光協会は、斐川町の万九千(まんくせん)神社で直会(なおらい。お祭りのあとの宴)をしてから、それぞれの国へ帰るといわれていると紹介しています。しまね観光ナビは、出雲大社の二度の神等去出祭について、17日は出雲大社から発つ日、26日は出雲の国を去る日だと説明しています。

いっぽう、各地で語られてきた神々の留守の期間は、土地ごとに違いはあるものの、神在祭の7日間よりずっと長いものです。世界大百科事典は、各地の言い伝えとして、神々は旧暦9月の末日か10月1日に出雲へ発つのが普通で、それより早い土地もあると書いています。神々は1か月ほど出雲に滞在してから帰ってくる、というのが同じ事典の説明です。島根県の文化財課がまとめた冊子『いにしえ』も、神さまが約1か月も村や家にいないことを、人びとはとても不安に思っていた、と書いています。出雲大社の神在祭の7日間と、各地で語られてきた約1か月の留守は、同じ長さではありません。

神在祭の長さには、別の言い伝えもあります。しまね観光ナビは、神在祭はもともと旧暦10月11日から25日までの15日間で、11日から17日を「上忌(かみいみ)」、18日から25日を「下忌(しもいみ)」と呼び、出雲大社に上忌、佐太神社に下忌が残ったという説を紹介しています。

神々が去る夜の過ごし方も伝わっています。『いにしえ』によると、出雲ではカラサデ(神等去出)の夜に「外便所に行くな」「外に出てはいけない」と言われ、戸口に飯や小豆粥をしゃもじで塗ることもあったそうです。

出雲大社で神々が過ごすとされるのは、旧暦10月11日から17日までの7日間です。そのあいだ出雲では、歌や楽器を控え、家を建てる工事もしないで過ごしてきたと言われています。神在祭は、神々を迎える日と送る日をきちんと決めて、そのあいだの過ごし方まで守ってきたお祭りなのだと、私は資料を読んで知りました。11月の終わりに出雲へ行く予定の人が「もう遅いのでは」と気にしている質問も見かけました。私は、暦の上の神在月と、神々を迎えるお祭りの日数は、分けて考えてよいのではないかと考えています。

なぜ出雲なの? 集まる理由は神社と時代で違う

「なぜ神々は出雲に集まるのか」。この問いへの答えは、一つではありません。松江市のコラムは、神々が出雲に集うと信じられた理由について、神社によって、また同じ神社でも時代によって、考え方が違っていたようだと書いています。

明るい和紙の地に左右2つの区画が並ぶ絵。左は晩秋の穏やかな海と白い砂浜、右は常緑の森におおわれた低い山の尾根と細い山道で、細い金色の縦線で区切られている。海から神々を迎える出雲大社と、山へ神々を送る佐太神社の違いを表す

出雲大社でよく語られるのは、国譲りの神話です。出雲観光協会によると、大国主大神は国譲りのときに、この世の政治は天照大御神の子孫に任せ、自分は退いて「幽(かく)れたる神事」を治めると申し出たと記録されています。この申し出は、『日本書紀』の国譲りの場面に、本文とは別の伝え(一書)として載っているものです。この目に見えない神事とは縁を結ぶことで、それについて全国から神々を迎えて会議をする、という信仰が生まれたと考えられる、というのが同協会の説明です。

同じ出雲でも、松江市の佐太(さだ)神社では理由が違いました。松江市のコラムによると、かつての佐太神社では主祭神はイザナミとされ、少なくとも江戸時代に入る前から江戸時代にかけて、神々が集まる理由もイザナミをもとに語られていました。イザナミは10月に出雲で亡くなり、佐太神社の宮山に葬られた。すべての神の母神なので、神々は孝行のためにこの月、この土地に集う。コラムの言葉を借りると、神々はいわば法事のために出雲に集まると考えられていたのです。イザナミを葬った場所を、『古事記』は出雲と伯伎(ほうき)の国境の比婆山(ひばのやま)としています。宮山の話は、それとは別に佐太神社で語られてきた説明です。

明治になって佐太神社の主祭神が佐太大神に戻ると、イザナミの法事という説明は使いにくくなりました。そこで主張されるようになったのが、新嘗祭(にいなめさい。その年の収穫を祝うお祭り)のために神々が集う、という説明です。佐太神社では、『出雲国風土記』に出てくるカンナビ山(朝日山とされる山)に神々が集まって新穀をささげたという祭りに、神在祭の起こりを求める考え方が主張されるようになりました。コラムによると、イザナミを祀る神魂(かもす)神社や熊野大社でも同じように考えられ、神魂神社では今もイザナミの考え方をもとに神在祭が行われているそうです。

言い伝えの上での目的も、縁結びだけではありません。島根県の『いにしえ』によると、神々が出雲に集まる目的は、氏子の縁組の相談がおもなものとされる一方で、酒作り(天神が作ることが多い)や料理のため、出雲へ里帰りや奉公に行くため、という言い伝えもあります。神々が集まる神社として、同じ冊子は朝山神社・神魂神社・出雲大社・佐太神社・万九千神社・多賀神社などを挙げ、松江市のコラムは出雲地方の9社で神在祭が行われているとしています。

出雲大社自身の案内では、顔ぶれがまた少し変わります。出雲大社は、旧暦の神在月に巡拝する「神在社」として、出雲大社・日御碕(ひのみさき)神社・朝山神社・万九千神社・熊野大社の5社を挙げています。『いにしえ』が挙げた6社と比べると、日御碕神社と熊野大社が加わり、佐太神社・神魂神社・多賀神社は入っていません。

巡拝の案内は5社、松江市のコラムは9社、『いにしえ』は6社の名前を挙げて「など」としています。一覧の性格がそれぞれ違うためでしょう、神在祭にかかわる神社の数は資料によって変わります。何社という数字を見かけたら、どの資料の数え方なのかを確かめておくと混乱しません。

佐太神社の神在祭は、今は新暦の11月で、春にも行われる

日程の決め方も、出雲大社とは違います。しまね観光ナビによると、佐太神社の神在祭(お忌祭り)は、かつては陰暦10月、今は新暦の11月20日から25日まで行われています。25日の夜には神職たちが神社の裏手の神目山(かんのめやま。しまね観光ナビの表記では神ノ目山)に登り、神々を送ります。

もう一つ意外なのは、春にも神在祭があることです。松江市のコラムによると、佐太神社では4月(今は5月)にも「神在祭裏月祭」が行われ、10月(今は11月)とほぼ同じ内容です。コラムは、春の祈年祭(きねんさい)と秋の新嘗祭が一組になっていると説明しています。佐太神社の公式サイトも、この春の裏月祭は今は5月に行うと案内しています。「神在祭は旧暦10月の出雲大社のお祭り」とだけ覚えていると、この違いを見落とします。

佐太神社では、神々を山から迎えて山へ送る

迎え方と送り方も、出雲大社とは違います。出雲大社では、神々は海から稲佐の浜に上がるとされ、浜で迎えた神々を出雲大社へお連れして、拝殿の神迎祭のあと十九社にお鎮まりいただきます。松江市の『歴史的風致維持向上計画(第2期)』によると、佐太神社では神迎えのときに本殿の扉を開かず、直会殿(なおらいでん)に立てた神籬を前にして神事を行います。計画書はこれを、山に宿った神を神籬に迎えるという意味だと説明しています。

送る先も山です。神送りが行われる神目山は、『出雲国風土記』に出てくる神名火山(かんなびやま。今の朝日山とされる山)と尾根続きの山です。計画書によると、当日の朝には山守や氏子が神目山までの約2kmの山道を掃除し、夜9時に神籬を持った神職を先頭に、氏子や一般の参列者が列になって山へ登ります。山の上には「池」と呼ばれるくぼみがあり、この池は海につながっているとされています。

5日後の11月30日には、止神送(しわがみおくり)があります。25日に送りもれた神々を送る神事で、神職だけで行います。神事の中身は25日と同じですが、帰りは神籬を山に置いたまま、後ろを振り向かずに山を下りてくるそうです。

この神送りは、江戸時代の記録にも出てきます。計画書は、寛文8年(1668年)の『佐陀大明神縁起』に、10月25日に社人たちが幣をささげて神目山に登り、ほかの国々の神々を送ったと書かれていることを紹介しています。もとは旧暦10月11日の神迎えから25日の神送りまでの15日間を「上忌み」と「下忌み」に分けて行っていましたが、明治30年(1897年)からは「下忌み」だけが新暦の11月20日から25日に行われているそうです。旧暦に合わせて毎年日付が動く出雲大社に対して、佐太神社は新暦で日付が決まっていることになります。前の章で紹介したしまね観光ナビの説も、15日間を上忌と下忌に分け、佐太神社に下忌が残ったとする点で、この計画書の説明と大筋は重なります。

収穫のお祭りについては『神嘗祭・新嘗祭・大嘗祭の違い』、イザナミの神話は『イザナギとイザナミ』でまとめています。

出雲へ行かない神さまもいる?

います。神無月のあいだ出雲へ行かずに、その土地に残るとされる神さまを「留守神(るすがみ)」と呼びます。

朝の光が入る古い家の土間の台所で、かまどの上の白木の小さな棚に、釣り竿と鯛を抱えた恵比須と袋を背負った大黒の素朴な木彫りの小像が2体並び、榊を挿した小さな器が添えられている絵。出雲へ行かず家に残るとされる留守神を表す

大辞泉は、留守神には恵比須神が多いが、地方によって違いがあるとしています。世界大百科事典は、一般にはオカマサマ(かまどの神)や荒神、恵比須、大黒、亥の子の神を留守神とするところが多いとし、これらはどれも家に住みついた家の神だという点で共通していると説明しています。日本大百科全書は、道祖神や金比羅なども留守神とされることが多く、全体として田の神や家の神の性格をもつとしています。島根県の『いにしえ』には、留守神の分布について、関東周辺は恵比寿、西日本は金比羅など、地域ごとの特徴も描かれています。恵比須と恵比寿、金毘羅と金比羅は資料によって書き方が違うので、ここではそれぞれの資料の表記のまま引いています。

大きな神社にも、出雲へ行かないという言い伝えがあります。世界大百科事典によると、東京都府中市の大國魂神社や長野県の諏訪大社などには、神の本体が蛇なので出雲に行かないという伝えがあり、讃岐の金毘羅さんをはじめ各地の金毘羅さまにも同じ話があるそうです。『いにしえ』は、留守をする言い訳として人びとが考えた話の一つに「体が大きい」を挙げ、頭は出雲に着いたのに、尾はまだ諏訪にあった、という言い伝えを紹介しています。

「留守神」という言葉は古く、日国は1310年ごろの『山王絵詞』を最初の例に挙げています。では、なぜ留守神という考えが生まれたのでしょうか。日本大百科全書は、神無月には神がいないという伝えが広まったあとで、それでも一部の神の祭りがあることの説明として、留守神の考えが起こったのではないか、という見方を紹介しています。同じ日本大百科全書は、留守神とされる神の祭日がしばしば旧暦10月に置かれている、とも書いています。

世界大百科事典が挙げる留守神の大黒も、こうした家の神の一つとして語られています。出雲大社は、「だいこくさま」は大国主大神と同じ神さまだとしつつ、七福神の大黒天とは正確には別の神さまだと説明しています。恵比須や大黒の成り立ちは『七福神とは』で扱っています。

神無月に地元の神社へお参りしても意味はある?

「神さまが留守の月にお参りしても意味がないのでは」。同じ質問は、2026年10月にもQ&Aサイトに寄せられていました。お参りの意味を何に見いだすかは、資料を読むだけでは決まらない、と私は考えています。以下は、辞典や出雲大社の案内などの資料で確かめられたことです。

  • 大辞泉が有力とする語源は「神の月」で、神がいない月という説明は大辞泉と日国で俗説とされている
  • 出雲大社で神々が過ごすとされるのは、旧暦10月11日から17日までの7日間
  • 神送り・神迎えの日は、9月の下旬から11月まで地方ごとに違い、一定していない(世界大百科事典)
  • 恵比須・大黒・竈の神など、出雲へ行かずに残るとされる留守神がいる

世界大百科事典の「神無月」の項は、神々を送り迎えする日には村の鎮守でお籠りをする風習もある、と書いています。徒然草第202段で兼好は、10月を神無月と呼んで神事を控えるべきだと記した書物は無い、と書いていました。今回確かめた資料には、神無月に地元の神社へのお参りを控えるという習わしは出てきませんでした。また、新暦の10月は旧暦ではおおむね9月前後に当たり、旧暦10月の神無月とは時期がずれています。

地元の神社のお祭りの考え方は『神社の祭りと神事とは』で、お参りの時間帯は『神社の参拝時間は何時から何時まで?』で扱っています。

よくある質問

伊勢神宮の天照大御神も、神無月には出雲へ行くのですか?

今回確かめた辞典や出雲大社、出雲観光協会の資料は、天照大御神が出雲へ行くとも行かないとも書いていません。いっぽう佐太神社の公式サイトは、明応2年(1493年)の『佐陀大社縁起』に、10月に神々が佐太神社へ集まるので伊勢と住吉の神だけは残って国を守る、とあることを紹介しています。伊勢の神と聞けば天照大御神を思い浮かべますが、縁起に出てくるこの伊勢の神が誰なのかは、佐太神社の公式サイトの神在祭の説明には見当たりませんでした(2026年10月5日に確認)。また鎌倉時代の終わりごろに書かれたとされる『徒然草』第202段は、神々が伊勢の太神宮に集まるという説を挙げて、その説には典拠が無く、本当なら伊勢ではこの月をとくに祭りの月にするはずなのに、その例も無いと書いています。

神在月の出雲では、八重垣神社など出雲のほかの神社の神さまもいないのですか?

出雲では、出雲大社のほかにも神在祭を行う神社があります。島根県の冊子『いにしえ』は、神々が集まる神社として朝山神社・神魂神社・出雲大社・佐太神社・万九千神社・多賀神社などを挙げ、松江市のコラムは出雲地方の9社で神在祭が行われているとしています。八重垣神社が神在月をどう説明しているかは、今回の資料では確かめられませんでした。気になる神社があれば、その神社の案内を確かめるのがいちばん確かです。

神送りの日に強い風が吹くと言われるのはなぜですか?

大辞泉は「神送り」の項で、神々が出雲へ旅立つ日には強い風が吹くといわれると書いています。日本大百科全書によると、神祭りの前後に雨や風、嵐があるという言い伝えは広く見られ、神さまの送り迎えや清めのためと説明されてきました。10月に吹く風を「神渡し」「神送り風」と呼ぶのもそのためだそうです。しまね観光ナビによると、佐太神社の神在祭のころに海が荒れることを「お忌さん荒れ」と言うそうです。

まとめ

この記事で確かめたことを、要点だけ並べておきます。

  • 神無月も神在月も旧暦10月の呼び名。旧暦10月はふつう小雪を含む月で、国立天文台の暦要項から毎年の新暦の範囲を計算できる(2033年のような例外の年もある)
  • 大辞泉と日国は、出雲へ集まるので神無月という説明を俗説とする。大辞泉は「神の月」とする説を有力とし、日国も「神の月」の意か、としている
  • 出雲へ集まる伝承は平安時代の終わりごろの『奥義抄』以来とされる。いっぽう『徒然草』は伊勢へ集まる説を挙げて退けている
  • 出雲大社の神在祭は旧暦10月11日から17日までの7日間。17日と26日に神等去出祭がある
  • 集まる理由は神社と時代で違い、佐太神社ではイザナミの法事から新嘗祭へと説明が変わった。留守神の言い伝えも各地にある

神さまを送ったり迎えたりする日は、地方ごとに違うそうです。あなたの地元にも、10月の終わりや11月に神さまを迎える言い伝えが残っていないか、家族や近所の神社の方に聞いてみてはどうでしょうか。

参考文献

公式資料(神社・公的機関)

辞典・原典

補助参考(観光協会・百科事典・読者の疑問)

本記事は、2026年10月に出雲大社・国立天文台・島根県・松江市・観光庁の公開資料、辞典類と百科事典、徒然草の原文、出雲観光協会と島根県観光連盟の案内、ジャパンナレッジの解説記事を確認し、神無月と神在月の由来と出雲の神在祭を本記事独自に整理したものです。旧暦10月の範囲は、国立天文台の暦要項から本記事で計算しました。神在祭の日程や見学の決まりは年によって変わることがあるため、お出かけの際は出雲大社の最新の案内をご確認ください。

※ 本記事の画像はChatGPT 等の生成AIによる象徴的なイメージ画像です。実際の景観とは異なる場合があります。詳細は免責事項をご覧ください。

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この記事を書いた人

あやとき編集部は、40代の編集メンバーで運営しています。子を持つ親としても、一人の人間としても、暮らしに息づく神社との関わりを大切にしながら、全国の神社文化を丁寧に読み解いていきます。

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